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歴代日本研究センター所長

ロバート・ホール、地理学:1947-1951、1952-1954、1955
ロバート・ワード、政治学:1951-195219591964-19681971-1973
ジョン・ホール、歴史学:1954-195519591960-1961
リチャード・K・ビアズレイ、考古学:1959-1960、1961-19641973-1974
ジョセフ・ヤマギワ、日本語・日本文学:1960
ロジャー・ハケット、歴史学:1968-1971
ロバート・E・コール、社会学:1974-19771979-1982
ジョン・キャンベル、政治学:1982-1987
ロバート・L・ダンリー、アジア言語学・文化学:1987-19901991-19931994-1995
ハロルド・W・スティ-ブンソン、心理学:1990-1991
ジェニファー・ロバートソン、人類学:1993-1994
殿村ひとみ、歴史学:1995-19992000-2002
ロバート・シャーフ、仏教学:1999-2000
ジョン・リー、社会学:2002-2003
マーク・D・ウエスト、法律学:2003-現在


沿革

日本研究センターによる他に率先した日本研究の伝統は、ミシガン大学全体としての学問普及における広範なリーダーシップ的役割の一端を担うものであり、従って日本研究センター自体の半世紀間の歴史を遙かに遡る。ミシガン大学とアジアの結びつきは、エンジェル学長が1870年代に特別使節として中国へ派遣されたときに始まる。日本人が初めてミシガン大学で学んだのも1870年代である。外山正一はその一人で、後に東京帝国大学学長を経て文部大臣となり、1886年にミシガン大学から名誉学位を授与され、日本人として初めてアメリカの大学から学位を受けた。小野英二郎は1890年代にミシガン大学で日本経済を研究した。米国での英語による日本経済研究は、これが初めてであった。小野は後に日本興業銀行の総裁に就任し、また小野が寄贈した本は、ミシガン大学図書館が所有する明治経済史に関する広範な書籍の中核となった。特筆すべきは、ミシガン大学から経済学博士号を最初に取得した10人のうち4人が日本人であったという事実である。

ミシガン大学で日本の歴史・文化の考察と詳細な分析が開始されたのは20世紀初頭で、1935年には最初の日本語講座が開かれた。1936年には、ミシガン大学は米国のどの大学よりも多数のアジア生まれの学生を有し、東洋文明プログラム(現在のアジア言語文化学科)が設立されるに至った。第二次大戦までは東洋文明プログラムに対する関心は薄かったが、日本がその中心的トピックであったことから米国陸軍は1942年にミシガン大学に日本語学校を設立した。数百人の米国軍兵士がアン・アーバーの通りを足繁く行き来し、一心に手で空に漢字の復習をしているところを通行人が不思議そうに見ている光景を目にすることができたのもこのころである。地域住民の関心が頂点に達した19431月、米国統合参謀本部長補佐の陸将補ジョージ・Vストロングはミシガン大学に「ミシガン大学の米国陸軍語学学校が今後いかなる形でも報道されないことは陸軍省の希望であり、大学側の協力を要請されたい」という内容の電報を発することを余儀なくされた。米国陸軍はアン・アーバーの日本語学校を軍機密と見なしていたようである。米国陸軍省の要請にも関わらず、ミシガン・デイリー紙とアン・アーバー紙は、日本語プログラムを無視しがたいニュースとして頻繁に関連記事を掲載した。

第二次世界大戦終了までに、ジョセフ・Kヤマギワ教授は同僚と共に1,500人以上の米国軍人に日本語を教授した。これは連合軍が太平洋における戦争を継続する上で不可欠な援助となり、米国内でも日本語言語学者の貢献は見過ごせないものがあった。一方、地理学科のロバート・Bホール博士は1946年、社会科学研究委員会に地域研究を推薦するための準備をしていた。ホール博士は当時すでに30年間に渡りアジア研究を続けており、後に日本政府が外国人に対して授与する最高の勲章である旭日章と瑞宝章を受賞している。ホール博士が意図していたのは、語学研究を基礎とする地域研究の組織的アプローチであった。人文科学の各分野の相互関係が薄れ、各分野の孤立化が進んでいると感じたホール博士は、これを再統合するために学術活動における学際的機関の設立を呼びかけたのである。このアプローチはまた超俗的態度がとられがちな分野を分かりやすく説明し、米国市民にその情報を提供するというものであった。世界大戦後の世界- そして将来の世界大戦-においてアメリカの利益を守るために一般市民の見聞を広めることは、日本研究センターが必要基金を募るための鍵だったのである。

設立背景

太平洋戦争は日本研究センターの設立にとって転機となった。大戦後の占領軍による政策が日本に新憲法、教育組織の改正、農地改革、女性参政権をもたらしたように、連合軍の日本占領は、ミシガン大学がすでに高く評価されていた陸軍語学訓練プログラムを拡張するための機会をもたらしたのである。1947年6月、日本研究センターはヘイブン・ホールに正式に設立された。ホール博士が地域研究の名目として提唱したように、日本研究センターによる教育は教育科目の新たな追加と見なされ、既存の教育課程に取って代わるものとは見られなかった。この方針にはミシガン大学内で日本研究センターが他の学部から大学院生を「盗む」かも知れないと言う畏怖を和らげるという意図があった。

生徒はまず語学訓練から始め、社会学理論を学び、最後にフィールドワークを通じて理論を実践する。ホール博士は日本研究センター所長に任命され、芸術学部のジェームズ・Mプラマー教授、経済学部のチャールズ・Fリーマー教授、人類学部のミッシャ・ティティーヴ教授、東洋言語学部のジョセフ・Kヤマギワ教授のさまざまな教員から構成される実行委員会を統率した。19489月にミシガン大学で、元朝日新聞編集者の鈴木文四郎が日本語で日本社会における女性の役割に関して講義したことは、ミシガン大学が当時日本研究においていかにリーダーシップ的役割を担っていたかを物語っている。第二次大戦直後にアメリカ国内で日本人を歓迎する場所はほとんどなく、また日本語を理解できる聴衆がいる場所は他にほとんどなかったからである。ミシガン・デイリー紙は、このラッカムでの講義を「日本語を理解できるアメリカ人の米国内における最大の集会」と報道した。

日本研究センターの初期の資金はカーネギー財団により提供され、150人以上に及ぶ志願者のうち最終的に25人の生徒が受け入れられた。合格者は全て軍隊で日本語教育を受けた男性で、すでに日本での滞在経験があった。日本研究センターでの教育に欠かせない要素と見なされたのは、日本国内で実地調査を行うことであった。こうして実行委員会は戦災地である大戦直後の日本にフィールドステーションを設立するという困難な作業を開始、日本研究センターはその数々の大胆なプロジェクトに着手した。

岡山フィールドステーション

第二次世界大戦後の日本は混乱状態であった。都市圏を除き、電話や自動車はほとんどなく、日常生活の必需品はすべて欠乏していた。日々の生活自体が非常な努力を要したぐらいであるから、ましてや日本の地方のただ中に研究所を設立することがいかに困難であったかが伺える。しかしホール博士のマッカーサー軍司令官との文通と東京での会見が功を奏し、日本研究センターは連合軍最高司令官から日本の岡山で研究を開始する許可を得ることに成功した。マッカーサー軍司令官は「4年間の日本における研究は大胆に計画されると共に堅実に考案されている。もし成功裏に終了すれば、この研究は学界に、また我々に日本をよりよく理解するための計り知れない価値のある知識を提供するだろう」と述べている。マッカーサーのいう「我々」が何を意味したかは議論の余地があるが、こうしてプロジェクトはミシガン大学から遙か彼方の、異国地の教室で実行されることとなった。

フィールドステーションの場所として選ばれた地域は、婉曲的に「日本文化のゆりかご」と呼ばれる日本最大の島である本州の太平洋岸側の中心部に位置していた。4カ年研究はそこで開始され、日本全国へと拡張される予定であった。不動産を確保するという困難な問題を克服した後、岡山フィールドステーションにおける研究は19504月1日に開始された。センターのスタッフと陸軍及び海軍の予備役将校である大学院生は迷路のような官僚機構手続を経て天然痘、腸チフス、発疹チフス、そしてコレラの予防注射を受けた後、日本への長い航海を開始した。大学院生にとっては教授の高等研究を援助し、かつ自身の卒業論文を完成させ、また博士課程における研究項目を選択する機会でもあった。

最終的に日本研究センターは岡山近郊の漁業を主要産業とする村、農業を主体とする村、そして山間の村の、三つの村で研究を行うこととなった。研究員はそれぞれの村に散らばり、「これら代表的な地域社会に関する総合的な知識」の収穫に焦点が当てられた。

研究対象である地域社会には複数の専門分野の研究員が配属され、同時調査が行われた。例えば、初年度には最終的に大部分の研究の焦点となった二池村が考古学者、地理学者それに政治学者等の日々の研究対象となった。二池村自体に住むことは不可能かつ不適当であったが、研究員は平均一日6時間、週4日または5日間二池村あるいは近隣の村、家または事務所で過ごした。

フィールドステーションのスタッフはさまざまな研究義務に加えて雑務にかなりの時間をさくことを強いられていた。研究センターとアン・アーバー間の通信は通常の郵便では時間がかかるため、緊急の通信は電信で行われた。ホール博士は1950年に「アン・アーバーにて2月1日までに映画カメラが必要。以前のケーブルはキャンセル。ディックがいなければボブに運ばせること。危機!」という内容の電信を送信している。入れ替わる生徒、教員それにスタッフの部屋を探すことや、最も基本的な必需品の入手は毎日の課題であった。たとえばストーブの調達には日本の製造会社、2つの運送会社、倉庫会社や地域当局とのやりとりで一年以上もかかっている。研究センターとその人員はしばしば新しい移民法、輸入・輸出法や税金制度のリトマス試験であり、またスタッフは多くの地域住民が接する最初の外国人であった。岡山の研究ディレクターの一人であったカーチス・マンチェスターの当時の手紙にあるように、研究センターが受けたサービスの支払をするのにさえ困難が伴うこともあった。「センターは現在脇田教授との贈答品の交換問題に巻き込まれている。私は県庁の社会問題課が推薦した額を脇田教授に支払ったが、彼はその額が多すぎると感じたようだ…脇田教授はお返しにわが大学に江戸時代の香時計を寄贈した。みなこの贈り物は非常に珍しいものであると言っており…社会問題課は現在正当な返礼はどうあるべきか、また贈答品の交換を禁止することも検討している。これは、アン・アーバーで面白い話題になりそうだ。」

必需品の配達や研究センター人員の渡航は、しばしば回り道することを余儀なくされた。村の出入りの交通手段であるジープの需要は絶え間なかった。また各人員はそれぞれ同時に数百の研究項目に携わっているため、人員一人一人の動向を記録するのは困難であった。フィールドステーションの教員は公式または非公式のセミナーや集会を通じて地域の政治家、学者や一般市民に浸透したため、各研究の遂行は地域住民の善意によるところが大きかった。当時センターで討議された事項の一つとして研究センター敷地内のテニスコートが上げられる。テニスコートの維持は高価であったが、地域住民との接触に効果的であったため必要と見なされた。現在ベントレイ歴史図書館に保管されている当時のアン・アーバーへの月次報告は学術、財政、雑務そして個人的な事柄を含む長い手紙の形で行われ、形式的あるいは非形式的な教育経験が入り交っている。

「拝啓ボブ、この第三回目の報告書で幾つかの問題点の解決を報告できればと思う。第一に、かまだ図書館からの18,200冊の書籍購入手続が完了した。反対に、因縁の電気ストーブ問題は未だに解決していない…皆元気に仕事しているが、私は多分米(特に日本米)アレルギーであると結論している。というのは8月に米の穂が出始めて以来、ひどいアレルギーに悩まされているからだ…残念ながらコニーの出産と我が家の跡継ぎの誕生の報告は後に譲らなくてはならないが、コニーは元気で頑張っている。ただおなかはかなり大きくなった。医者が先週の木曜日に話したところによると、彼女は赤ちゃんを『たくさん』抱えているそうだから、多分大きな赤ちゃんになるようだ。」
195010月付ロバート・ホール宛ロバート・ワードの手紙の抜粋

フィールドステーションへの関心が高まるにつれ、アン・アーバーの日本研究センターの知名度も高まった。在米日本大使はアジア図書館開設のリボンを切り、1953年には、当時19歳であった皇太子明人親王が来米、アン・アーバーの日本研究センターを訪問し、センターの学者団と会見した。ビル・ベンダーは地域ラジオ放送で、「グレーの背広に緑のネクタイを締め、茶色のオックスフォード靴を履いたすらりとした19歳の皇太子明人親王は、端正な顔立ちで大きな黒い眸をしている…殿下の当地訪問は特に時期を得た感がある。アメリカ海軍将校の日本訪問は日本の数世紀に及ぶ西洋からの孤立に終焉を告げたが、マシュー・Cペリー艦長が東京湾に四隻の黒船を入港させたのはちょうど100年前だったからである」と話している。

岡山の4カ年研究計画は最終的に5年間以上継続し、フィールドステーションは1955年を最後に閉鎖された。日本研究センターの当時の記録には岡山県知事雪原幹氏の次のような記述が他の請願と共に含まれている。「貴殿の314日付岡山日本研究フィールドセンターの将来に関する手紙に非常に驚きかつ困惑しています。何とか考え直していただけたらと思う次第です…さらに、研究センターの学者は皆紳士であり、研究と我々との交流を通じて二国の友好親善に計り知れない貢献をしたばかりでなく、その高潔な人格は我々に多大な影響を与えました。」

絶え間ない支持にも関わらず、1955628日、フィールドステーションは閉鎖された。アン・アーバーと岡山の最後の電信にはスタッフの気持ちが簡潔にこう述べられている、「上出来、悲しみと感謝を持って」―スタッフ

研究の拡張

岡山での研究の終了は、日本研究センターの絶え間なく拡張するプロジェクトの始まりを意味した。1950年代初頭までに日本研究センターは軍隊市場から離れ、大学生を高等課程研究に受け入れるための準備を開始、その後20年に渡りプログラムに所属する大学院生は全て「12のドア」コースを習得することが要求された。このコースは各分野の専門家が1年に渡り交代で専門分野の講義を行うというもので、公式名称は「人類学 583-584:日本人とその文化」であったが、教職員と生徒の間では「中央集積コース」として知られていた。 同コースには口頭試験が含まれ、また、生徒が日本に関する基礎知識を共有するばかりでなく、将来の学者同士の相互協力の基礎となる仲間意識を育てるように組まれていた。これらの講義は後に日本文化の総体的研究に様々な分野がどのような洞察と解明をもたらすかを「外部者」に示すためにTwelve Doors to Japan (1965年) として発刊された。

1952年を初めとし、日本研究センターの学者は極東学会(1941年設立、1956年にアジア学会「AAS」と改名)事務局長を勤め、同学会の運営の基盤をアン・アーバーに植え付けた。数十年間に渡り極東学会は日本研究センターと同じ建物内におかれ、ミシガン大学の教授は他のどの教育機関の教授よりもその運営に携わった。1950年代後半には、日本研究センターは京都大学のアメリカ研究センターにも関与し、また東京のアメリカン・スクールの高校生に「日本研究における卓越した貢献」に対するブック・アワードを提供している。

この時期における重要な業績として、1950年代末までに日本研究センター教授団が開設当時からの研究・討議の焦点であったセンターで教授される学科の多数を内包する図書目録文献を完成し、印刷物を日本研究用に項目別分類化するというプロジェクトを完了したことが上げられる。これは学界に多大な影響を及ぼす業績であり、資料はその後の重要な日本研究に欠かせないものとなった。同時に、アジア図書館は1950年代を通じて日本研究センタースタッフが収集を続けていた数万に及ぶ文献の目録の作成に没頭していた。1955年、日本研究センターはかなりの財政困難に陥っていたが、文献の目録作成の目的でさらに7人のスタッフを雇用しつつあった。1950年代後半には、岡山のフィールドステーションでの学者団による研究がVillage Japan (1959年)を初め、数十の書籍にまとめられ出版された。

日本研究センターはまた、設立後間もなく日本の学者のアン・アーバーへの招聘を開始した。最初に招待を受けた日本人学者の一人はアン・アーバーで1949年に教鞭を取った日本の行政管理庁統計管理部長兼法政大学教授の美濃部亮吉博士であった。後に岡山大学総長となった谷口澄夫は1952年アン・アーバーに到着、ジョン・ホールが山とつもった岡山研究物を整理する手助けをした。他の特筆すべき事柄としては、1957年に三島由紀夫が聴衆で埋まったエンジェル・ホールで「日本文壇の現状と西洋文化との関係」と題された講義をしたこと、在日米国大使に任命される直前のエドウィン・O・ライシャワーが同年、日本における当時の傾向は「西洋化ではなく近代化」であると講義で主張したことなどが挙げられる。1950年代半ばはまた早稲田大学工学部教授団との交流が始まったときである。さらに、岡山フィールドステーションに数ヶ月先だって設立された日本研究センター出版会は、岡山での研究の出版とセンター初期の教授並びに生徒の研究出版を推進した。1951年から1979年にかけて継続された日本研究センター不定期学術論文シリーズThe Center for Japanese Studies Occasional Papers Seriesは学際的研究と深い地域理解を記した文献の宝庫となった。

日本専門の大学教科の拡張ならびに日本語専門家が増加したことから、1958年の秋には各地域に散らばっている日本研究結果をより体系的にまとめる方法を模索する目的で、各地の教授団がミシガン大学に集結した。この会議の結果結成されたAAS支援による「近代日本に関する会議」は、当時の学術的発見の共同管理と近代日本研究への新しい着想とアプローチを奨励するもので、年間6回に渡るセミナーと最終的に数十の関連出版物が出版されるなど、1960年代の日本研究の先駆けとしての役割を果たした。

1960年代、日本は欧米諸国と同様に社会的大混乱を経験した。当時の日本における暴動の引き金となったのは日米安全保障条約の更新である。1960年代末期には、日本における社会的動揺は大学で最も顕著で、学生の暴動により多数の著名大学が閉鎖された。1960年、当時東京に滞在していたロバート・ホールは、その状況を直に目撃し、「現在は日本滞在の最適な時期とはいえない。岸氏、安全保障条約、それに来るアイゼンハワー大統領訪問に対するデモ、暴動、ジグザグ行進はほとんど日夜を問わず続いている。しかし現在までのところ、米国人の被害者は一人のみで、それも道理をわきまえず行くべきでないところへ行き、車をバラバラにされただけである」と描写している。

この「革新的」1960年代の2年目に、日本研究センターは言語と地域研究所のための国防教育法(National Defense Education Act for Language and Area Centers) に従いアウトリーチプログラムを開始した。この年はまたセンターの教授6人が5年間に渡り協調して行う「日本における政治近代化プロジェクト」が開始された年でもある。日本研究センターの研究普及への努力は、1967年にAAS支援のもとアン・アーバーで開催された「第27回国際東洋学者集会」を主催し、付近のホテルが会議に参加する学者で満員状態となったことからもうかえる。

オイルショック

1970年代の大部分を通じて日本を含めた先進産業国は、翌数十年に渡りそれまでの貿易慣習に変革をもたらす世界的ジレンマ、「オイルショック」への対応に追われていた。この社会背景とともに日本研究も変換していた。戦後学術界の先駆的存在であった日本研究センターの学者は、その地位を次世代の日本専門家に譲り始めていた。1973年秋に日本研究センターに携わっていたミシガン大学教員は19名、センター所属大学院生数は63名を数え、心理学、公衆衛生、法律、音楽、社会学、そして経営学などのポジションが新たに加えられた。日本研究センターは米国内における最も包括的な日本関連専門研究所としての地位を確立し、設立以来193の文学修士号と84の博士号を授与した。日本政府はその功績を評価し、1973年日本研究センターに対し百万ドルの補助金を交付している。この補助金はやはり日本研究センターに交付されていたフォード財団とカーネギー財団からの多額の寄付に続くものであった。

1972年、日本研究センターはアジア研究教育プロジェクト(PASE)を開始した。多数のアウトリーチプログラムの一つとしてPASEは会議、ワークショップや公開講座を通じて高校や大学レベルのアジア研究講師によるカリキュラムの作成を援助するように考案された。さらに、1974年までに日本研究センターはブリティッシュ・コロンビア大学の人類学博物館とともに「イメージとライフ:日本先史5万年」と題された貴重な文化遺産のシンポジウムと巡回展示の計画にも携わっていた。展示、専門説明員、展示に付随した教育キットやスライドコレクションは1970年代後半に米国内を巡回し、197910月にはアン・アーバーで関連国際シンポジウムが開催された。このシンポジウムにはかなりの関心が寄せられ、シンポジウムに関する出版物発行が懇請された結果、翌7年間に渡ってWindows on the Japanese Past: Studies in Archaeology and Prehistoryが編集 された。出版には4カ国の学者による協力を要し、ハイライトは17に及ぶ翻訳記事が含まれたことであった。この本はそれまで日本研究センター出版会が携わった最大のプロジェクトで、日本の学者に西洋の読者に対して直接研究を公開する希な機会を提供した。

25年間に及ぶ研究の後、日本研究センターでは日本に関する研究項目や教授項目がますます増加しつつあった。1973年、日本研究センター所長のロジャー・ハケットは日本人とアメリカ人の認識を比較し、これが正反対であるとし、「日本人はアメリカにおける社会変換を小さな事柄を通じて観察し、出来事を全て拡大する傾向があるが、反対に一般的アメリカ人の日本に対する認識は大きな視点に基づいており、各事柄の重要さに気が付かない傾向がある」と述べている。

パートナーシップ

一般アメリカ市民の日本に対する理解が当時欠乏していたとすると、オイルショックと日本のオイルショックに対する対応、特に自動車産業における迅速な対応は新たに日本に関する情報の需要を生み出した。米国の自動車メーカーは日本の自動車メーカーに関する情報を躍起となって探索した。デトロイトから比較的近距離にあった日本研究センターが、米国内で唯一所持していた日本の自動車産業に関する情報をアメリカの三大自動車メーカーに提供したのは自然の成り行きであった。日本に関する情報の必要性は日本のシンクタンクである「テクノバ」との協力を促し、「日米自動車問題調査研究」に繋がった。この研究資金はトヨタが調達し、またビッグスリーも相当額の援助を行った。研究団には全米自動車労働組合のメンバーも含まれていた。1981年にはミシガン大学の構内で最初の自動車会議が開かれたが、当初予想された参加者数が数百人であったのに対し、1,200人以上の参加者があったことからも正確な情報の必要性がどれほど切迫していたかがうかえる。日米自動車共同研究最初の会議と出版物は、日本の自動車産業と経済的成功の根底にあると見なされた主要原則に関する最初の情報源の一つであり、その後も1980年代を通じて会議と出版物は拡張されていった。

1984年、日米自動車研究の総括的出版物が発行され、続いて国際自動車産業フォーラムが編成、このフォーラムは1984年から1990年の間機能した。同時期世界各地の自動車生産国の代表者を集めた会議は米国から日本の各地を巡回し、このような大規模な会議を補足するものとして、1980年代半ばにはフォード社やダウ・コーニング社などの経営者を含む実業家のための実用的なセミナーも開かれた。東アジアビジネスプログラムの「日本人との交渉」などの短期ワークショップは好評を博し、日本研究センターと提携している多数の学者やプログラムを通じて引き続き提供された。

世界の日本への関心は1980年代に益々高まった。日本経済は止まるところを知らぬ長距離大型トラックのようであった。日本は世界の舞台でますます大きな役割を担うようになり、日本はこれまでにない国際責任に対する精査を受け、その対応に苦慮していた。日本に関する全ての事柄への関心が高まるとともに、ミシガン大学のほぼ全ての日本関連コースにおいて登録学生数が増加した。

各分野の講義と出版物が増加するとともに、1936年以来継続された教育課程の中心的存在である日本語コースへの登録者数も急増加した。ビジネス関係の活動も増し、1983年日本研究センターは経営学部と提携して日本研究の文学修士と経営学修士の二重学位プログラムも提供し始めた。また1985年には前出の「東アジアビジネスプログラム」が日本研究センター、中国研究センターそれに経営学部の協力のもと開始された。東アジアにおける米国事業のキャパシティを強化するため、この教育課程では東アジアの一般的理解と現在の事業問題と機会に対応する上で必要とされる専門知識の習得が奨励された。また同プログラムには事業管理者による日本と中国に関するセミナー、学術的会議、企業によるプレゼンテーション、東アジア研究と国際ビジネスの二重学位プログラム、大学院生用のインターンシップ、それにビジネス用語学訓練などが含まれた。

ビジネスと人文科学のバランスを取る目的で、日本研究センターでは1980年代に他の分野と同時に日本文学の出版にも力が注がれた。文化分野を強調するため、センターでは1970年代初期以来日本映画をほとんど中断なく上映していたが、映画フェスティバルが新たに再編成された。以来、映画フェスティバルは数千の観客に国際的に知名度が低い、しかし日本の批評家に絶賛された人気映画を見る機会を提供している。こうしてドキュメンタリー、アニメ、個展、実験映画や人気映画など300以上の日本映画がオリジナル通りの日本語で(英語字幕付)上映された。映画上映は無料で通常一般公開されるとともに、日本史、日本映画それに日本社会の分野を先導する学者によるクラス、公開講義、セミナーにも使用された。センターはさらに日本の音楽、演劇などその他の多様のパフォーマンスを毎年支援しており、日本人アーティストやアメリカ人観客にとって直接交流の希な機会を提供している。

客員教授

「私の生徒は最後までやり遂げた。…彼らの論文は非常に質が高かった。教鞭を執ることは私自身に影響を与えた。生徒に教えることを通じてThe Aesthetics of the Traditional Japanese Film の執筆を始める気力を得ることできた。私はこの本を私の生徒に捧げる。生徒は私の鏡であり、そして私の仕事に貢献した。私はいまでも彼らに感謝している。」
――ドナルド・リッチー、トヨタ招聘客員教授、1993年秋

8年に渡るロビー活動の結果、1980年代の後半に日本研究センターは日本の学術界との広範な交流を促す交代式客員教授職の設立に成功した。1988年以来、こうしてトヨタ客員教授職を通じて日本、ヨーロッパ、それに米国各地から28人の学者がミシガン大学で教える機会を得ている。これら専門家は経営学、人類学、教育、音楽学、映画、政治学など各専門分野における洞察を提供し、学生にとっては日本専門家のクラスに参加するまたとない機会となっている。一般公開講義は一般市民にも有益であり、また客員学者は新しい同僚と情報交換をする機会を得ると同時に、米国内における最高峰のアジア分野のリソースを利用することができる。

「私はミシガン大学における知的活動のエネルギーの高さ、その学術的質の高さに非常な感銘をうけた…日本研究センターは知的インプットに関しても同様に刺激的な環境であった。知的な刺激と同僚間の協力関係は顕著であり、それは学生にも反映され、学生は知的にも個人的にもホームを得たかのようであった」
―― 大貫恵美子、トヨタ招聘客員教授、1995

日本研究センターの将来

日本研究センターには現在、ミシガン大学の各種の学部やプロフェッショナル・スクールで教鞭を執り、また研究に携わる40人以上の日本関係専門家が所属している。教える義務に加え、研究所の学者は外部団体に講義をし、学術機関誌や一般のメディアに広く出版し、全米の専門家連盟に参加し、産業や政府コンサルタントとして勤務し、またアメリカの日本に対する関心に対応してその育成に貢献している。全ての学部を加えると現在100近い日本関連コースに年間約1,000人の大学生及び大学院生が登録している。研究所における学生のまたは教員の研究は出版物の増加を促し、日本研究センター出版会は世界各地の学者による幅広い出版物を発行し続けている。出版物は現在、Michigan Monograph Series in Japanese Studies (ミシガン日本研究シリーズ)、Michigan Papers in Japanese(日本研究におけるミシガン論文)、Michigan Classics in Japanese Studies(ミシガン日本研究クラシック)の3つのシリーズ及びシリーズ外出版物として発行される。出版物はNew York Times Book ReviewWorld Literature Todayや日本及びアジア研究そのほか全ての機関誌により批評され、100以上の大学において日本語、日本文学それに日本文化教科の教科書として使用されている。また産業、政府、それに一般市民向けの出版物も出版会を通じて発行される。

現在も日本に関連した研究の奨励と普及が日本研究センターの主要目的であることに変わりはない。個人または集団研究はセンターの財政的・事務的支援を得て行われ、継続中のプロジェクトには日本の現代及び古典文学、男女関係、政治的決議過程、日本言語学、日本技術管理、禅学・修道院制度、社会福祉、日本の近代、戦後建築などの研究が上げられる。日本研究センターは幼稚園~高校の教育向けにもプログラムと資金を提供しており、たとえば、日本文化を照会する助けとして考案された先生用のリソース、ジャパン・キットがある。日本研究センターはまた科学と技術の創造的使用への具体的提案を提供する日本技術管理プログラム(JTMP)などの学際的教育課程にも参加している。

50年の間、日本研究センターは日本研究援助のために多様のツールを編集し続けた。リソースコレクションの中で最大の規模でかつ最も集中化されているのはアジア図書館である。アジア図書館の日本書、中国書、そして韓国書の蔵書は698,072冊(日本書の蔵書はこのうち269,153冊、マイクロフィルムはリールが11,272巻、シートは8,058枚である)、米国で2番目に大きな規模である。その他のコレクションにはアジア美術アーカイブ、日本美術スライドコレクション、人類学博物館の先史工芸品、美術館の芸術作品、音楽学部図書館の

録音レクション、ベントレイ歴史図書館内のセンターの歴史に関する文献、そしてスターン・コレクションの珍しい日本楽器がある。センターはまた教育省により設立された東アジア国立リソースセンターの一部を形成している。

日本研究センターはアメリカと日本における目まぐるしい変化、日本や日本と世界との関係に対する洞察を要求しまた提供する日本研究センター内の教授陣、スタッフそれに学生への対応といった様々の試練に立たされている。1947年以来、日本研究センター卒業生及び学部内の卒業生に授与された文学修士学位数は500を超え、日本関連分野において200以上の博士号が授与された。新しい世紀が始まると共に、日本研究センターは知識、学問、理解、発展、そして相互協力の新しい機会の創造を目指している。今日の社会の急激かつ大幅な移り変わりは将来の世界がより複雑となり困難さを伴うことを意味し、学問への学際的アプローチへの期待が急速に高まることを示唆している。これは今後日本研究センターが真正面から立ち向かっていくチャレンジである。


参考文献

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